Concept

「魚っていうのは、大抵、水揚げしてからそんなに長くは持たない。」多分、ほとんどの方はこの言い回しに何の疑問も持たないと思われます。しかし考えてみてほしい。これは人間の尺度、もっと言えば市場の尺度での言い方ですよね。つまり「商品としての魚」について言っているわけです。魚からしてみれば「知ったこっちゃない」わな。

「魚っていうのは、広い広い海の中を自由に泳いで生きている。人間は、魚たちをレーダーで追っかけ回したり、罠を仕掛けたりして、その一部を収穫し、陸揚げする。魚たちは市場システムの中に放り込まれて流通に乗るが、人間たちが摂取可能な鮮度を保ってられるのは、そう長い時間ではない。」少し丁寧に言うとこんな感じ。まぁこれでも「知ったこっちゃない」(魚)には変わりないけど。
つまり何が言いたいかというと、市場に乗って値段が付けられた魚にしか価値を感じられない鈍感な人間の存在がそこにあるわけです。

 

さて、本題。
上の文章の「魚」という文字を変数と捉えて、代わりに「音楽」を代入してみよう。
要点だけ書けば、「音楽っていうのは、広い広い海の中を自由に泳いで生きている。」「市場に乗って値段が付けられた音楽にしか価値を感じられない鈍感な人間の存在がそこにあるわけです。」

 

食卓での利用価値に縛られている限り、我々は本当の「生きた」音楽の存在を感じることができない。確かにインターネットは、思ったよりたくさんの音楽を深海から浅瀬に呼び込んだかも知れないが、かと言って、思ってみたほど市場も人間の価値観も拡張出来なかったと判断せざるを得ない。結局のところ、本当の、リアルな、実際の音楽を創作し体験するには、やはり広くて深い海の中に飛び込んで行くしかないのだ。

更に言えば、インターネットは、浜辺での水遊び程度までは快く手伝ってくれるし、頼んでもいないのに「監視」までしてくれる。しかし、沖を越えて、海の深淵を目指そうとする者にとっては、逆に足枷となっているように思う。そして一般に目を向ければ、「食卓と浜辺の往復」で満足してしまう傾向が日に日に強くなって行くのを感じる。

 

生きた音楽、生きた音楽家は間違いなく海の中に居る。海の中に飛び込まなければ体験出来ない音楽がある。

 

潜水は、それほど恐ろしいものではない。ただ泳ぎの上手い下手は多少関係するかも知れない。上手ければ、浅いところと深いところを行ったり来たり出来るだろう。しかしそんなことは問題じゃない。重要なのは、海の広さを実感することである。直観すると言っても良い。抽象化され、のっぺりとした表面の測地線をなぞるのではなく、直観が訴えかける複雑なディテールを、ひとつひとつ読み解いて行く作業こそ、今は大切なことのように思える。何一つユークリッド幾何学に従っているものなど無いのだ。

 

 

 

補足:

 

□   魚っていうのは・・・
Lincoさんと一杯やりながら。彼と話していると、脳が刺激されるのか、もわもわしていることが言葉になり易い。この魚と海のメタファーは割と傑作だなと思ったのでブログに載せた。

 

□   足枷
情報がコピペを繰り返され、不要に乱立している状況。

 

□   「食卓と浜辺の往復」
メディア。

 

□   直観
あるがままを観る。

 

□   抽象化
大抵の場合、抽象化される側よりも、抽象化する側のセンスに重きが置かれる。つまり誰も主観の地平線から脱出することは出来ない。

 

□   ユークリッド幾何学に従っているものなど無い
点と線を視覚した人間はいないし、ましてや直線を引いたり、それを平行に並べるなど夢のまた夢である。

 

 

 

「魚と海」by Syn Nakamura(Basic Werk)